さとう動物病院
  長野県 千曲市
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エチオピア、国際救急医療活動
 私は1985年1月から3月まで、国際救急医療チーム(JMTDR)の調整員としてエチオピアに派遣されました。今でこそ、海外で地震や津波など大きな災害があると、「国際緊急援助隊」がスムーズに組織され、医療チームも素早く派遣されていますが、当時はまだ試行錯誤の段階でした。何百万人もの人々が被災した未曾有の干ばつ被害に対し、必ずしも充分な支援ができたとはいえませんが、その活動の一端をここに紹介できれば幸いです。
 
 首都、アジスアベバは標高2,400mの高原地帯にあり、緑に恵まれた美しい街です。ジャカランダやブーゲンビリアの花が咲き、ホテルの庭園もきれいに整備されていました。モカの銘柄で知られているエチオピア産のコーヒーは、同国を代表する農産品ですが、路傍の畑ではコーヒーの実がたわわに実っていました。 
 ナイル川の源流として知られているブルー・ナイルは、タナ湖から流れ出て、アビシニア高原の大地に深い渓谷を刻みながら、サハラ砂漠へと流れ下る。 
 干ばつに見舞われた地域は、緑がほとんど見られないほど乾燥した不毛の大地に見えるが、よく見るとその中に集落が点在していた。
 エチオピア北部のメケレの町には、大勢の干ばつ避難民が押し寄せ、郊外に難民キャンプのテントが設営されていた。町中には美しい教会の尖塔が立ち、市場では生鮮野菜や香辛料が売れ、そこに住む人々の日常生活を垣間見ることができた。
 エチオピアの主食、インジェラとワット。インジェラはテフと呼ばれる非常に小さな穀類から調理され、当時、深刻な干ばつのため、テフの生産が激減していた。ワットは肉と野菜を香辛料で煮込んだ料理。とても美味しかった。
 民族衣装を着たエチオピアの女性と子供。
 干ばつ被災民のキャンプ。一つのテントに20人ほどが収容されていた。食料や燃料の配給を受け、自分たちで煮炊きをしていた。
 干ばつ被災民は次々に押し寄せたため、キャンプの外には収容しきれない被災民が順番を待っていた。
 教会と墓地、キャンプでは衰弱した人が大勢亡くなり、郊外にある教会の墓地に埋葬されていた。  
  キャンプ脇の道路と行き交う人々。
  キャンプ内での医療活動。入院用のテント内では、大勢の患者が日本人の医師と看護師に治療を受けていた。地元の高校生が赤十字のマークを付け、ボランティアとしてお手伝いをしていた。
 カトリック系の援助団体「カリタス」が、キャンプの運営を行っていた。被災民を集めて、彼ら自身ができることを、グループを作って指示をしていた。  
  国際赤十字の医療施設、フィーディイングセンター。栄養障害児のためのプログラムを組み、必要な栄養が給与できるように活動していた。
  ドイツから来ていたカトリック系のボランティア団体。ドイツ大使も軍用輸送機で視察に来ていた。大使一行がアジスアベバに戻るとき、私も買い出しに行くため、便乗させて頂いた。
 メ ケレ市の郊外にある孤児院、ボランティア団体からの支援のある子供たちが収容されていた。  キャンプ内の子供たち。少ない水で洗濯をしたり子守をしたり、よく働いていた。
  町中の子供たち、屈託がなく、笑顔に溢れ、とてもひとなつっこかった。
 キャンプ内の子供たちも、数日前まで死の瀬戸際にいたとは思えないほど、笑顔に溢れていた。
(国際協力フォトコンテスト特選受賞作品) 
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